中国や韓国は、歴史を外交ツールとして、ことあるごとに日本に「歴史戦」をしかけてくる。歴史は、加害者と被害者が互いに交錯しながら、それらが次の歴史の原因となって続いていく。加害者だけの歴史などはありえないし、被害者だけの歴史などもあり得ない。

韓国が言う「慰安婦」や「徴用工」、中国が言い立てる「南京大虐殺」など、被害者史観にたっての「歴史」などは、真実からは程遠いもので、日本を外交的に追い込むための、「外交ツール」でしかなく、結果的に、日中、日韓間に軋轢を生じさせている。

ここでは、日本人それぞれが「歴史戦」を戦うために、その中国が主張する「南京虐殺」について検証したこの動画をリニューアル掲載する。

1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件以来、日中戦争は泥沼にはまりつつあった。当時上海には日本租界やフランス租界があり、戦争中にもかかわらず国際都市としてにぎわっていた。

この年の8月、国民党軍機は、上海の日本艦艇をねらい空襲を行ったが、この爆撃により、フランス租界、国際共同租界に爆弾が投下され、一般市民1741人が即死、1868人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明したが、租界への爆撃はその後も発生した。

日本政府は、これによりそれまでの事態の不拡大政策を見直し、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す、」との声明を発表し、日本海軍は、九州から南京への航空機による渡洋爆撃を開始した。しかし上海を守る日本兵は、海軍の陸戦隊6000名余に対し、中国軍は上海周辺に7万余の兵を集結させ激しい攻撃を行った。日本の特別陸戦隊は、10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。

その後、上海派遣軍2個師団が上陸し、9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐した。しかしそれでも日本軍は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけではなく、陸軍部隊が増派された。

中国軍は、トーチカ、塹壕を築き、毒瓦斯彈攻撃も行い、日本軍の被害は大きく、日本の5個師団と1支隊の戦死傷者数は2万人を超えたとされる。それでも10月下旬、上海派遣軍は上海近郊の要衝、大場鎮を攻略し、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、それ以上は強力なトーチカに阻まれ進むことができなかった。しかし11月初旬、上海南方60キロ地点に日本軍が上陸した。これにより、上海近郊の蘇州河で戦っていた中国軍は、退路を絶たれる恐れから動揺し、一斉に退却した。

日中戦争において中国軍は、「堅壁清野、」と呼ばれる焦土作戦を用いた。これは日本軍には何も残さないというもので、退却する際には掠奪と破壊を行い、また中国軍への強制的な「徴用」に反抗する者は、漢奸として処刑した。また正規兵の軍服を脱ぎ捨て、一般人に紛れてしまうことも多く、これが日本側の対応を難しいものにしていた。

10倍近い敵軍を壊走させた日本軍は、すかさず追撃に入った。当時の国民党政府は南京を首都としていた。中国軍が放棄した要塞線を越えた日本軍は南京に迫った。蒋介石は南京の防衛戦にこだわり、多くの中国兵や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民は恐慌状態となり、親日派の中国人や日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。

12月初旬、日本軍は南京防衛軍の外郭防御陣を突破し南京市へ攻撃を開始した。蒋介石ら中国軍首脳陣や中国政府要人、公務員等は早々に南京を脱出したが、取り残された市民は混乱状態に陥った。日本軍は南京城を包囲し、城内に開城勧告のビラを撒き中国軍に対し降伏勧告を行なった。しかし返答はなく日本軍は総攻撃を開始し、南京城の光華門を確保した。

城内の中国兵は無秩序に脱出をはかったが、死守を命じられたトーチカの中国兵は、逃げられないように床に鎖で足を縛りつけられたまま残された。また南京城から長江への逃げ道にあたる邑江門には、逃げようとする兵を背後から撃ち戦闘に向かわせる督戦隊が置かれていた。明確な撤退命令もない中国軍の混乱により、その後も戦闘が続き、多くの命が失われた。

この南京陥落後、南京城の城内、城外で敗残兵の掃討が行われた。中国軍は、軍服を付けない便衣兵を一般住民に多数紛れ込ませていた。また南京脱出の際に、軍服を脱ぎ捨て一般住民にまぎれて脱出しようとする者が多くあり、このような便衣兵は捕虜とは異なり、陸戦法規の保護を適用されない。

このような状況の中で、「南京大虐殺、」が起こったとされ、日本の敗戦後、中国国防部戦犯裁判軍事法廷は、第6師団長だった谷寿夫中将ら4名の日本軍の将校が南京虐殺の責任を問われて死刑の判決を受け処刑された。法廷は、400名以上の被害者、目撃者を出して証言させたが、多くは城内掃蕩戦に入った段階で起きたものとされた。谷中将自身は関与を否定したが、特別反証は許されなかった。

この裁判では、「被害者総数は30万人以上に達し、死体が大地を覆いつくし、悲惨極まりないものであった、」とし、現在の「南京大虐殺30万人、」の根拠となっている。

しかし、当時の南京の人口は20万人から25万人とされ、この裁判結果が果たして真実かどうかは疑わしく、その犠牲者数、また虐殺そのものの存否が議論されている。