なんでも韓国起源にしてしまう韓国だが、その内の一つに「イエスキリスト」がある。日本一の深さの田沢湖すら韓国起源にしているような国だから、笑い話ですむ話なのだが、現在の韓国の、伝統的なシャーマニズムと結びついている韓国のキリスト教(ウリスト教)を見ると、笑ってばかりはいられない。

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韓国の宗教は、人口の約3割がキリスト教徒で、キリスト教が最大勢力の宗教となっている。その内、プロテスタントと、カトリックの内訳は、プロテスタントの信者が2に対して、カトリック信者が1になっているとされる。しかしそれらは、本来はキリスト教が忌避する、土俗的な巫俗的神秘主義を引き込んでおり、ために、「ウリスト教」などとも揶揄され、キリスト教とは別物と考える者も多いようだ。

キリスト韓国人説は、自身もキリスト教徒だった、韓国人画家のウンボ・キム・キチャン氏が描いた、キリストの生涯を描いた連作からきているようだ。ウンボ・キム・キチャン氏は、韓国の1万ウォン札の、世宗大王の肖像画をも描いたという、韓国を代表する画家の様で、公益大学の美術の教授も務めていた。

これらの絵は、朝鮮戦争真っ只中の1952年に描かれたもので、朝鮮戦争で自身が感じた苦しみを、キリストが生前に受けたような苦しみであると感じ、キリストの苦難に朝鮮人の置かれている現状を当てはめて描いたとされ、氏、自身は「苦痛な生活を画筆でなだめ、早くこの戦争が終わり、平和がくるよう祈って描いた」と語っているようだ。

この「キリストの生涯」は、「受胎告知」や「最後の晩餐」など、イエスキリストの生涯を30枚の連作で描いている。その中で描かれている人々の服装や建物などは、李朝時代の風俗そのもので、イエスキリストやマリアも朝鮮人の姿で描かれている。他のキリスト教の国でも、布教の手段や、その地の風俗と結びつけることで、キリスト教を身近なものとするための試みの中で、そのようなことは見受けられる。

ウンボ・キム・キチャン氏の「キリストの生涯」は、決して「イエスキリスト韓国起源」を主張するために描かれたものではなかった。氏の一連の作品は、それでも、情緒的であり、確固とした理念や時代考証にもとずいたものでもなさそうで、イエスキリストの姿が、本来であれば忌むべき対象の李朝時代の「両班」の姿であったりする。また過去の作品の内容に、日本に関するものもあり、その為に後年、親日画家として批判を受けて、謝罪をしたという。

しかし、氏の意図とは関係なく、この「キリストの生涯」の作品が、その後、「イエスキリスト韓国起源」の源となっていったようだが、それは、この作品をきっかけとしてはいても、その作品の意図とは全く関係ない、韓国民の民度そのものからのもののようだ。

韓国起源説は、個人や団体が勝手に主張し始め、それを、マスメディアが流布しているようで、比率的には、日本文化や中国文化が対象とされる場合が多い。そしてその多くは、韓民族優越主義的な視点で主張されることが多い。特に日本文化に対する起源説の主張では、小中華思想と、公教育に基づいた強い対日蔑視の視点で主張される事が多いようだ。

このような現象は、一部の韓国人の劣等感に起因するものと思われ、「韓国は古代より小さな属国だったため自信がない。そして歴史・資源・世界的な地位などあらゆるものが不足するなかで、手段を選ぶことなく自分の物であることを主張するようになった」と分析した中国メディアもある。

イエスキリストと言えば、世界で最も有名な人物であり、特に、キリスト(ウリスト?)教徒が多い韓国内では、イエスキリストが朝鮮人と考えることは、大きな満足を得ることであり、そこに歴史的な真実など入り込む余地はないのだろう。

さて、イエスキリスト韓国起源からすれば、当然、聖母マリアもまた朝鮮人でなければならないということになる。その為かどうか、バチカンの韓国大使館は、2005年、約2mの高さの、チマチョゴリ姿のマリア像を作成させ、設置した。この像は、韓服を着た韓国の平凡な母親にキリストを背負わせ、頭には水がめを乗せている。圧巻なのは聖母マリアが胸を露出した、いわゆる乳出し姿だ。これを見た当時のベネディクト猊下は、聖母を侮辱する行為として激怒したという。

要するに、韓国起源説、ウリジナルは、韓国民の歴史的な事大主義に根付く、劣等感の産物であり、韓国人が、かつて支配されたと思っている、中国と日本に対するものが多い。それは日本に対しては、劣等感が姿を変えて、徴用工像や、様々な形態の慰安婦像として表現されるのだろう。その意味では、韓国民のウリジナルを、ただ荒唐無稽の劣等感の産物と切り捨てるだけではすまないだろう。