ムンジェイン大統領夫人のキム・ジョンスク氏が、シンガポール首相のホー・チン夫人を昌慶宮に案内し、昌慶宮について、「日帝時代に多く毀損された悲しい歴史を持っている」と説明したという。意図的にか、あるいは不勉強のためか、事実は全く違う。

昌慶宮は、ソウルの観光名所の一つとなっている。李朝第4代王の世宗大王が、第3代王の太宗の隠居所として1428年に建てたもので、荒廃していたものを、第9代王の成宗が、3人の大妃(先王の后妃)を住まわせるため、3棟の王宮を改築、拡張し、名前も現在の昌慶宮となった。

当時、昌慶宮は現在とは比べものにならないほどに大きく広い王宮であったとされる。しかし創建当時の楼閣はすべて、豊臣秀吉による文禄の役(韓国名では壬辰倭乱)の時に焼失したという。ここで言う「文禄の役の時に焼失」をもう少し掘り下げると、その様相はかなり異なる。

文禄の役(1592年)の際の国王は宣祖で、この時期には配下官僚が実権を持ち始めたようで、東人派と西人派に分かれて権力争いを繰り広げていた。宣祖は1567年即位したが、儒教に傾倒して儒学者を重用し、かえって配下官僚の間での思想的対立や政治的対立を引き起こし、権力争いは激化したようだ。

この時期にはすでに李朝末期にみられる強欲傲慢な両班による権力争いが見られるが、民衆のためのインフラの整備や殖産興業などの事績は見られず、民衆は奪われるだけの存在だったようだ。

1592年、豊臣秀吉は朝鮮半島に兵を進めた。文禄の役である。朝鮮軍は戦国時代によって鍛えられた豊臣軍に太刀打ちできず、豊臣軍はわずか半月ほどでソウルに迫る勢いだった。宣祖は豊臣軍の入城を前に、いち早くケソンに逃げた。空になったソウルは、豊臣軍の入城を前に、朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり、景福宮や昌徳宮などと共に建物の多くが焼失した。

ケソンに向かった宣祖は、ここで迎えるべき文武官は殆ど逃散しており、民衆からは、国王一行に罵声が浴びせられ、石を投げつけられる有様だったという。民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上ったという。つまり昌慶宮は、文禄の役の際に、李朝に不満を持つ多くの朝鮮人により略奪・放火されたものだ。

昌慶宮は、その後の1616年に再建され、この時から昌徳宮とともに景福宮に代わり王朝の中心舞台となり、両班らの派閥争いによる大小の歴史的な事件が、昌慶宮で途切れることなく起こった。粛宗の時代に起きた、賎民出身の王妃張禧嬪とその一族が処刑された事件や、英祖の時代に起きた思悼世子の死など、すべてここ昌慶宮が舞台になった。それらと関わりがあるかどうかは定かではないが、昌慶宮は再建されてからも火災が続き、そのたびに内殿が焼け、幾度か再建されている。

日本統治が始まる直前の1909年、日本が純宗の心を慰める目的で、荒廃していた昌慶宮内の一部の宮門や塀を撤去し、動物園と植物園を造り、桜やモミジが植えられ一般民衆にも公開された。1911年には博物館も建てられ、大韓民国独立以後も、ソウル市内の第一の遊園地として多くの人々が訪れた。

しかし太平洋戦争と朝鮮戦争のさなか、動物たちはすべて処分され、苑内の施設も荒廃したが、その後再建が進められ、1957年に動・植物園が再建された。1983年には昌慶宮の復元が始まり、動物園などをソウル郊外に移転させ、1983年昌慶宮が復元された。

これが昌慶宮をめぐる歴史の真実である。キム・ジョンスク氏がホー夫人に語った「日帝時代に多く毀損された悲しい歴史を持っている」は、捏造に近い反日歴史史観と言えるだろう。どうもキム・ジョンスク氏は、被害者と加害者が交錯する歴史の真実を見ずに、恐らく悪意もなく、悪意ある反日歴史史観を信じてるようだ。

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