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山形県西川町本道寺字大黒森

2012/09/05取材

大同4年(809)、湯殿山に参拝した空海によって開基された光明院が始まりとされる。空海は、この地で、霧の中で光る老木を見つけ、その老木から大日如来と大黒天2体の仏像を造り、庵に安置したと云う。

この地を旅立つ際、空海は、従僧の一人に、「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残したという。当初はこの庵を「月光山光明院」と称した。

その後、天長3年(827)に、湯殿山大権現を勧請して伽藍が造られ、これ以降、月光山本道寺と称し、湯殿山4か寺となった。本道寺は、空海の遺訓もあって、4か寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となった。

本道寺は歴代の領主にも崇敬され、古くは大江氏の流れの寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなっていた。

「出羽三山参拝の本道」とされたため、この地を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、参拝のピークの夏の稼ぎだけで、遊んで暮らせたほどの繁栄を誇った。

明治元年(1868)、この地周辺は戊辰戦争の戦場となった。新政府軍は、恭順した東北諸藩を従え、庄内藩、桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われてしまった。

明治7年(1874)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。このとき、戦災を免れた本道寺の寺宝は、出羽三山から分離した大日坊、注連寺など、縁のある諸寺院に引き取られたが、その後、散逸してしまったものが多い。

焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890)、規模を縮小して、拝殿や本殿として再建され現在に至る。