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山形県西川町岩根沢

2012/09/05取材

要害森館は、背後に水沢川を控えた、標高517m、岩根沢集落との比高約100mの単丘上に造られている。館上面よりは、北は月山方面がよく見え、南は岩根沢集落方面も見渡せ、守りに易く攻めるに難い要害の地である。

館の形態は、南側前面に副郭的な広い場所があり、その奥に主郭が造られている。主郭は、南北23m、東西34m程である。主郭には土塁跡が見られ、虎口の部分には枡形の跡もみられる。北側と西側には数段の郭が配されており、館の規模は大きなものとは言えないが、南側と東側には、特徴ある19条の畝縦堀が構築されている。

館の北側には月山の参詣道が通っており、月山信仰と関りのある戦国期以前の築城とも考えられるが、天正年間には(1570頃)在地領主で、沼の平館の館主の東海林隼人佐の弟の東海林昌盛により手を加えられたと考えられる。

当時は、最上氏と大江・白鳥氏が対立しており、東海林氏は白鳥十朗長久に与力し、最上義光に対峙した。しかし、天正12年(1584)、白鳥氏が最上氏に滅ぼされると、沼の平館は最上勢の攻撃を受け、隼人佐は降伏したと伝えられ、このとき要害森館も、最上勢の攻撃を受けて落城したと思われる。

その後は最上氏の支配下となり、関ヶ原の戦いの直前に、上杉氏との軍事的緊張が高まり、改修された。