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山形県寒河江市柴橋

2013/10/05取材

 

宝暦5年(1755)山形盆地に置かれた、天領の代官所の一つである。初代代官は、天野市十郎。宝暦10年(1760)に、小田切新五郎代官が陣屋を構築した。

代官所には、手附、手代が置かれ、この地の年貢、戸籍、治安などの行政を行った。明和4年(1767)ころには、支配高は、48ヶ村で7万4千石で、代官は柴橋と寒河江の両方の代官を兼務した。通りには郷宿が7軒あり、官庁街のようなたたずまいだったという。

役所は南に正門、北に居宅、東西に米蔵を備えていた。

鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は、江戸市中取締などの庄内藩の幕末時の功労に報いるために、庄内藩に、出羽の寒河江柴橋代官所管轄の幕府領7万4千石の管理を命じ、柴橋陣屋で保管していた年貢米21,000俵を庄内藩に与えることにした。そのため庄内藩は、藩兵をこの地に送って領内の警護を行い、陣屋の年貢米を川船に積み込み庄内へ運んだ。

新政府は、奥羽諸藩に、一方的に会津藩、庄内藩征討を命じ、九条道孝を総督とし薩長を中心とした鎮撫軍が仙台に入り、さらに仙台より出羽に入った。当時は、新政府軍の財政基盤は確立しておらず、戦費をまかなうために太政官札の発行や、大坂商人の資金提供を頼りとしていた。

新政府軍は、天童藩を先導役として天童に本陣を置いていたが、柴橋陣屋の年貢米の情報を入手した新政府軍は、年貢米の押収を企図し、4月2日、先遣隊が柴橋を襲撃した。しかし、このときは既に庄内藩が年貢米を運び出した後であり、守備兵もおらず倉庫は空であることを確認し先遣隊は引き返した。

年貢米を押収できなかったことは新政府軍にとって大きな打撃であり、これが朝廷の公領を侵害したとして、庄内征討が決定された一因になった。奥羽鎮撫軍は4月23日に新庄まで進出し、庄内藩との緊張は高まり、清川口の戦いが起こることになる。