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山形県鮭川村大字庭月字後野

2012/07/06取材

 

庭月館は鮭川と岩下川が合流する地点の南側、鮭川に面した比高約30mの台地上に築かれている。この庭月館を中心に、北に八幡館、南に小十郎館、玄蕃館があり、それぞれが庭月氏一族の館で、全体として「庭月館」を形成していたとも考えられる。

庭月館は単郭で、東西約70m、南北約100m程の曲輪が残る。東側は鮭川に面した断崖で、北は岩下川を天然の堀としている。西と南には空堀が設けられ、台地と遮断している。南は東側がやや南へ張り出ている。北から西側縁部に土塁が築かれており、土塁南端に虎口があり、木橋が掛かっていたと考えられる。また東側には鮭川に向かって降りていく坂道が見られる。北東隅部に墓碑があり、「大守公廣綱」と刻まれている。

築城年代は定かではないが、この地に下向した本姓佐々木氏の鮭延氏一族の庭月氏によって築かれたと云われる。鮭延貞綱の時、最上郡に侵攻した尾浦城主大宝寺義増に敗れて拠点を真室に移し、鮭延領の南端の庭月に、庭月和泉守綱任を配した。

庭月氏は、式部少輔綱政を初代として、和泉守綱任、理右衛門広綱と三代続いた。庭月氏は、必ずしも鮭延氏に対して従順であったわけではなく、大崎氏や最上氏との交流も積極的に行い、鮭延氏から独立しようとする意図を有してもいたようだ。

当初、鮭延氏は横手の小野寺氏と誼を通じており、この地は北進する最上氏との最前線となっていった。天正9年(1581)、小国郷を制圧した最上義光は、さらに鮭延郷制圧に動きはじめ、義光は重臣の氏家尾張守に命じて鮭延家中の懐柔を図り、庭月広綱を内応させることに成功し、最上氏は鮭延城を攻め、鮭延秀綱は降伏し最上義光に臣従した。

庭月広綱はそのまま鮭延氏に仕え、そのままこの地に居していたようだが、元和8年(1622)に最上氏は改易され、鮭延氏とともにこの地を去り、廃城になったと考えられる。