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山形県鶴岡市鼠ヶ関甲

震災前取材

 

鼠ヶ関には、近世の関所跡と古代の関所跡の二つがある。この地の関所は、慶長年間(1596~1614)から明治5年まで設置されていた近世の関所跡で、古代関所跡は、この地の南方約1kmの県境にある。

この鼠ヶ関の地が文献に現れる最も古いものは、能因法師の歌枕の「ねずみの関」であり、それ以降歌枕として広く知られるようになった。

「義経記」の義経主従の奥州下りの鼠ヶ関通過のくだりは、歌舞伎の「勧進帳」を思わせる劇的場面として描かれている。この義経の奥州下りは、この地には次のように伝えられている。

義経一行は、越後の村上馬下まで馬で来たが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船を着けた。関所も難なく通過し、関所の役人の世話で、五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅立った。

古代鼠ヶ関は、調査の結果によると、柵列跡、須恵器窯跡、製鉄跡、建物跡、製塩跡などが確認され、高度の生産施設を持った集落の形態を持ったものである。年代は平安中期から鎌倉初期にわたっている。

近世の念珠関は、「鼠ヶ関御番所」と呼ばれ、古い絵図によると、街道を塞ぐ形で柵が立てられ木戸門があ置かれていた。番所の建物は3間に7間の平屋建て茅葺だった。この番所は、沖を通る船の監視や、港に出入りする船の取り締まりもしていた。

元禄2年(1689)6月27日(陽8月12日)、松尾芭蕉は浜温海から鼠ヶ関を通り、歌枕の地の陸奥を後にした。