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山形県鶴岡市下川字関根

震災前取材

 

善宝寺は、平安時代の天慶から天暦年間(938~ 957)頃、天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、龍華寺と呼んだものを始まりとする。

妙達上人は、金峰山、羽黒山に入峰し、さらに京に上り学を修め、後、矢引の宮泉寺の奥の院にこもり、ひたすら仏教の奥義の探求を続けていた。やがてこの地にささやかな庵を結び、法華経を誦して明け暮れた。いつしか近郷近在の人々が上人の読経の席に集まるようになったが、その中に、誰の目をもひく美男と美女の二人が加わるようになった。ある日、いつものように上人が読経を終え、里人が帰るのを見送った後、ふと見ると、件の男女が正座したままうなだれている。

上人は、この二人は何かの化身に違いないと感じていたが、さりげなく「何か御用か」と問うた。二人は頭を上げ、自分たちは貝喰池に天下った竜の化身の竜王と竜女で、上人の説教を聴き、仏法のありがたさを知ったと話した。そして、「いつまでもお導き下さるよう…」と深々と頭を下げた。上人は感服し、竜王に竜道、竜女に戒道の名を与えた。二人は大いに感激し「この先、信者の人々が風水の厄難を免れるようお守り致しましょう」と言うと、竜の姿になり貝喰池から黒雲に乗って昇天したという。

これより寺は大いに繁昌し「竜華寺」と呼ばれるようになった。寺はこの後も三度竜の奇瑞にあやかり、室町時代の永享年間(1429~1441)、曹洞宗の僧太年浄椿が諸堂を復興し、寺号を善寳寺と改め、山号を竜沢山とした。

この地の近くには、かつて北前船で賑わった加茂湊があり、龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者の信仰を集め、また大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める。今も全国各地の海運業の人たちからの信仰があつく、目をひく掲額なども多く残っている。

 

開山堂でもある、守護の両大龍王尊を祭祀する龍王殿は、文安3年(1446)に創建、天保4年(1833)に再建されたもので、亀甲葺と称する八棟造形式の銅板屋根は海の波「うねり」を型どり、又、軒組には波に鯉、鯱、雲と草花といった彫り物が多様に配されている。

また、北海道松前郡の豪商より寄進された五百羅漢堂は、安政2年(1855)に建てられたもので、赤瓦葺入母屋の大屋根で、内部空間を活かした総欅造りで、内陣には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩を安置している。その前には十六羅漢、更に四百八十四人を加え五百羅漢がならんでおり、当時の北前船航路の繁栄が偲ばれる。

その他、魚鱗一切の大供養塔として建てられた五重塔や山門、総門など、いずれも見事な彫刻が施されている。また、国の重要文化財の、菱田春草「王昭君の図」を保有している。