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山形県飯豊町萩生

震災前取材

 

恩徳寺は、弘法大師の高弟の柿本紀僧正真済によって、天安元年(857)に、当初は山王原の地に開山されたと伝えられている。本尊は、弘法大師が唐から日本に持ち込んだ五智如来尊である。

その後、この地の領主の国分氏三代光信が、応永年中(1394~1428)、山王原から祈願所として、萩生城出丸のあった現在地に移した。

この置賜地方には、紀僧正真済の伝説が多く伝えられており、奥羽を巡錫中に、この置賜地方で入定したとも伝えられる。

真済の出自は、武内宿禰系の紀氏である。平安時代に入り藤原氏がその勢力を拡大 していた。このような時期に、文徳天皇は次期天皇に第一皇子で、母が紀氏の出であり、真済が護持僧の惟高親王を望んでいた。しかし、太政大臣の藤原良房は、娘明子が生んだ第四皇子の惟仁親王を強引に擁立し、清和天皇とし、紀氏は政治の中枢から排除され、天皇の外戚として藤原氏が実権を握った。その後紀氏は、政治面で活躍する機会は失われたが、紀貫之や紀友則以降の子孫は、神職や文人として活躍するようになる。

紀僧正真済も、弘法大師の高弟として有名であり、高雄山寺に篭り12ヶ年修行するなど、深く仏門に帰依した。弘法大師から種々の密教の奥義を伝授され高雄山を託された。朝廷からも崇敬を受け、嵯峨天皇から内供奉十禅師に抜擢され、後年にはその皇子の源鎮が出家して真済の弟子となった。貞観2年(860)2月、享年61歳で没した。