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山形県川西町中小松

震災前取材

 

小松城は、越後街道と長井街道の交差する要衝に位置する。犬川右岸の、元学校敷地であったところが本郭で、北と南にはそれぞれ郭が配され、西側の現在の新山神社境内の場所が西郭だったと思われる。周囲を土塁と水堀で囲んだ、東西300m、南北300mほど を城域とした平城である。

本郭と北郭、南郭は、それぞれ土塁と堀が囲んでいたと思われる。堀は宅地化によって埋められ、土塁は削られているが、本郭部には、北側を除く三方に土塁と櫓台が良好な形で残り、西側には水堀の遺構が残っている。

小松城は、南北朝期に、長井広房の家臣の船山因幡守によって築かれたとされる。しかしその後、長井氏は伊達氏による置賜郡侵攻により滅亡、伊達氏家臣大町貞継が城主となり、その後大町氏が七代にわたりこの地を治めた。伊達氏の置賜地方支配の重要な支城であったようで、明応3年(1494)には伊達の宿老桑折景長が城主となり、天文の乱後には、朝廷より奥州守護代に任じられた牧野久仲など、文武兼備の重臣が城主を務めた。

しかし、元亀元年(1570)、小松城主牧野久仲の実父である中野宗時は、連歌の会を催し、連歌に興じて米沢城へ出仕せず謀反を企て、遠藤基信の暗殺を計ったが失敗、小松城に籠城し、伊達輝宗により攻められ敗れて相馬に逃れたと言う。その後はまた桑折氏が城主となったが、伊達氏の岩出山移封後は、廃城になった。