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山形県高畠町高畠

震災前取材

 

別名:屋代城、鐘ヶ城

高畠城は屋代城とも呼ばれ、また、西が丸く東が角型の鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城とも呼ばれた。

平安時代末期の承安年間(1171~74)に藤原秀衡の従兄弟、樋爪五郎季衡が築城したとも云われているが定かではない。鎌倉時代は大江氏の一族の長井氏が、米沢を本拠に置賜を支配していたが、天援6年(1380)、伊達宗遠、政宗が長井氏を滅ぼして置賜を支配下に収め伊達氏の居城となった。以後、伊達晴宗が米沢城に移るまで高畑城は置賜における伊達氏の本拠地となった。伊達氏が本拠を米沢に移した後は、伊達氏の家臣小梁川氏の居城であったと伝えら れる。

その後、慶長3年(1598)からは米沢上杉藩領となり、直江兼続の家臣春日元忠が初代の城代となり、以来高畑城は置賜統治における上杉氏の重要な支城となった。関ヶ原の戦いで西軍についた上杉景勝が米沢三十万石に減封されてからも高畑城代は置かれた。元禄2年(1689)、十代目城代半田善左衛門の時に屋代郷が上地となり廃城となった。

明和4年(1767)、織田氏が上野小幡から転封となり、三代64年間、織田氏の居城となった。しかし織田氏の採地の四分の三は天童を中心とする村山郡にあり、文化7年(1810)、文政9年(1826)の二度の火災により焼失したこともあり、天保元年(1830)、織田氏は天童に移り、御役屋のみ残し他は廃棄された。