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山形県高畠町亀岡

震災前取材

 

高畠町の亀岡文殊は、丹後の切戸の文殊、大和の安倍の文殊とともに、日本三文殊の一つとして有名である。中国の南北朝時代、南朝梁の僧青巌が梁の宣化天皇2年(536)この地に飛来して霊場となり、大同2年(807)に、東北地方布教のため当地を訪れた徳一上人が、五台山に似た山容に心うたれ堂宇を建立したのが文殊堂の始めといわれている。

別当寺の大聖寺は、皇室の勅願所として国家安穏の祈祷を命ぜられ、また、徳川五代将軍綱吉以来家茂までの十代の間、ご朱印百石を賜り、中納言挌の待遇を受けていた天下の名刹である。

文殊菩薩は、釈迦の左にいて知恵を司り、中国では五台山がその浄土とされ、昔から、『三人よれば文殊の知恵』といわれるように、学問の神様として知られている。入学、入社試験等の合格祈願に訪れる人があとを絶たない。

文殊堂の傍らには大黒天があり、この尊像を両手で抱き、「軽くなり給え」と念ずれば、次第に軽くなり、「重くなり給え」と念ずれば重くなり、また、念願達成のときには軽く持ち上げられるという。

参道入口には仁王門があり、両脇には金剛力士像がある。参道途中には、十六羅漢像、芭蕉句碑、『南無阿弥陀仏』と刻された義民高梨利右エ門の念仏碑があり、薬師如来をまつる払川薬師堂のほか、文殊堂背面には大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩がまつられ、また一山の守護神、蔵王権現も鎮座している。

永禄8年(1565)、伊達輝宗と結婚したばかりの義姫は、文武の才たかく、忠孝の誉れあるすぐれた男子の誕生を願い、文殊堂に参詣し、この近くに住む行者の長海上人を訪れ、出羽三山の一つである湯殿山に祈願を頼んだ。長海上人は湯殿山に祈願し、その証として幣束を湯殿の湯に浸して持ち帰り、義姫の寝所の屋根に安置した。

するとある夜、白髪の老僧が義姫の夢枕に現れ、「姫の胎内に宿を借りたい」と言う。おどろいた義姫は即答するのをためらい、「夫の許しを受けてからご返事をいたします」と丁重に答えた。このことを夫の輝宗に告げると輝宗はたいへん喜び「これは瑞夢である。再びこのようなことがあれば許すように」と義姫に命じた。翌晩、再び老僧が夢枕に現れ、義姫は老僧の願い通りに、胎内に宿を借すことを許した。老僧は義姫に幣束を授け「胎育し給え」と言って立ち去ったという。この瑞夢があってからまもなく、義姫は懐妊し男子を産んだ。

修験道では幣束のことを「梵天」と言い、幣束を胎育するということは、神を胎育することであり、産まれた政宗は神の生まれ変わりということになり、「梵天丸」と名付けられた。さらに夢枕にたった老僧は出羽の国に生まれ、奥羽地方では隻眼の聖人とあがめられた万海上人という修験者であったという。

万海上人は陸奥国千代の経ヶ峰近くの池のほとりに一堂を構えて住み、経ヶ峰に葬られたと言い伝えられていた。万海上人の生まれ変わりと言われていた政宗は、死期が近くなった折、経ヶ峰に上り、経ヶ峰に葬るように遺言したと云う。

また、上杉景勝が会津から米沢へ移封となった翌年の慶長7年(1602)2月、直江兼続の主催で亀岡文殊堂において漢詩や和歌など、あわせて100首を詠じ、それを奉納する詠会がおこなわれた。この中には、戦国時代に「傾奇者」として名高い「前田慶次」の名もあり、奉納された和歌や漢詩は、今も文殊堂に納められている。