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山形県米沢市林泉寺一丁目…林泉寺

震災前取材

 

直江兼続は、永禄3年(1560)に樋口兼豊の長男として生まれた。樋口氏は、上杉謙信の従兄弟で、謙信の姉婿でもある長尾政景に仕えていたが、政景の死とともに、その子の景勝は謙信の養子となることになった。このとき、兼続は、景勝の母(謙信の実姉)の仙桃院の推薦で、景勝に従い春日山城に入ったと伝えられる。

天正6年(1578)、上杉謙信の突然の死去に伴い、謙信の二人の養子の景勝、景虎が後継を巡っての御館の乱が起こった。兼続ら景勝方は、機先を制し春日山城の三の丸にこもる景虎派を攻撃、景虎らを直江津にある御舘に追い出した。翌年、武田と北条の援軍が景虎派救援のため駆けつけるとの情報を得た兼続らは、御舘に夜襲をかけ景虎派を壊滅し、景虎は小田原へ逃げる途中自刃して果てた。

御館の乱は、景勝側の勝利に終わったが、このとき、景勝方で旗本大将として活躍した与板城主の直江信綱は、御館の乱の恩賞問題で斬り合いの仲裁に入り、運悪く斬殺されてしまった。信綱には男子がいなかったため、景勝の命で、直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚し、直江家を継いで越後与板城主となった。

このころ、上杉家は織田信長の軍勢に圧倒され、天正10年(1582)には越中の魚津城を攻め落とされ、さらに信州、上州から織田軍が迫る危機的状態を迎えていた。また、上杉家重臣の新発田重家も叛旗を翻し、まさに四面楚歌状態の上杉家であったが、織田信長が本能寺の変で没し、羽柴秀吉が明智光秀を倒し、実質的な天下人となったため、上杉家は危機的状態を脱した。

このような上杉家の危機的状況の中で、兼続は景勝の執政として、景勝の手足となり、越後の再統一と施政に尽力した。 反景勝勢力を長年にわたり平定し、佐渡から出羽庄内までも支配した。

常に景勝を補佐し、天正15年(1587)には新発田重家討伐で武功を挙げ、関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられた。
天正17年(1589)の佐渡征伐、天正18年(1590)の小田原征伐、文禄元年(1592)からの朝鮮出兵においても、景勝と共に参陣して武功を挙げた。慶長3年(1598)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含め30万石)の所領を与えられた。

慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。

石田三成と懇意にあった景勝と兼続は、家康との対立を決意する。そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣の藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどして、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった直江状は有名である。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折には、兼続は東軍に与した最上義光の領地である山形に、総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。庄内からの別働隊とともに畑谷城、谷地城などの最上領の支城を次々と攻略し山形本城に迫ったが、長谷堂城の攻略中に、関ヶ原本戦での西軍の敗北を知り撤退した。

結果として、最上の攻略が成らなかったばかりか、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を許した。しかし戦後はその処理に奔走し、出羽米沢30万石へ大減封とはなったが、上杉氏の存続は許された。

その後は徳川家に忠誠を誓い、米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業、鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築いた。

また上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献した。元和5年(1620)、江戸屋敷で没す、享年60歳。

ここには、兼続の妻であるお船(おせん)の方の墓石も並ぶ。

お船の方は、弘治3年(1557)に与板城主直江景綱の娘として生まれた。男子がいなかったために、与兵衛信綱を婿に迎えた。この信綱は景勝の馬廻大将、奉行職として、景勝を支える重職にあった。ところが御館の乱のもつれから殺害されてしまった。
この直江家の断絶を惜しんだ景勝は、兼続にお船の方を配し直江家の名跡を継がせた。このときお船の方は25才、兼続22才だったという。夫婦仲は極めて円満だったらしく、兼続は生涯側室を持たなかった。

お船の方と兼続との間には一男二女があった。しかしいずれも早世している。嫡男景明は生来身体が弱かったらしい。大坂冬の陣の時、景明は結核を患っていたが父と共に参戦。その翌年元和元年(1615)、没した。

長女於松は慶長9年(1604)、本多政重と結婚。これによって、政重は兼続の養子となったが、この於松は翌年死去し、長女と前後して次女も死亡した。自分の子供には恵まれなかったが、上杉景勝に嫡男の定勝が生まれると、定勝の養育や奥向きのことに深く関与したらしい。

後年、お船の方が病に倒れると、定勝は自ら見舞いに訪れ、伊勢神宮に大神楽を奉納させ、病気平癒の祈願を行なった。また兼続の死後、定勝はお船の方に対して扶助料三千石を与え、手明組40人の士を従属させた。

兼続が元和5年(1619)死去すると、兼続の遺志を継ぎ、『文選』の再刊も果たした。『米沢雑事記』には、源頼朝の妻の政子と比べられ、「これを尼将軍と申し奉る。直江後室も似たり。」と書かれている。