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山形県米沢市丸の内一丁目

震災前取材

 

江戸時代、この地には上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた。

謙信は天正6年(1578)3月、越後春日山城で逝去、享年49歳であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている。

その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津、米沢と移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に安置された。

謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重、かつ丁重に祀られた。

明治4年(1871)の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、上杉神社の祭神として祀られた。謙信の遺骸は、明治9年(1876)、歴代藩主が眠る御廟所に移された。

 

・招魂碑

謙信祠堂跡のすぐ脇に招魂碑が立つ。これは慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した、米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年(1878)4月に建てられたもの。その後、日清、日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されている。

碑は凝灰岩で、高さ約3.4m、総高5.8m、碑名は、戊辰戦争に従軍して参謀を務め、後に山形県師範学校初代校長になった、斎藤篤信が、稲穂の芯を束ねた大筆で書いたもの。