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山形県米沢市関白布温泉

震災前取材

 

慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いの折には西軍として戦った上杉景勝は、会津百二十万石から米沢三十万石にと減封された。直江兼続は本多正信に接近するなど徳川に対して友好的な外交を進める一方、戦いの準備にも心を配っていた。

慶長9年(1604)、兼続は江州国友村(滋賀県長浜市)から鉄砲師の吉川惣兵衛、泉州堺(大阪府堺市)から泉谷松右衛門を呼び寄せ、人里離れた白布を鍛冶工場とし火縄銃を密かに製造させた。その数は1千挺に及んだといわれている。

白布に鍛冶工場を置いたのは、人目を避け密かに製造するためと、火薬の原料の硫黄、鍛冶に必要な大量の炭の供給を考えたものと思われる。現在の米沢市森林体験交流センターの場所からは、大量の木炭屑や鉱滓が見つかり、鍛冶工場の跡と考えられる。白布の古い旅館には、鍛冶職人の賄い等の世話を行った記録、伝承が残っている。

なお、その後鉄砲職人は、米沢城下に屋敷を与えられ鉄砲屋町を形成し、鉄砲の製造修理を続けたと伝えられる。