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山形県米沢市直江石堤

震災前取材

 

別名:谷地河原堤防

直江石堤は、上杉景勝の重臣直江兼続によって築かれた石積みの堤防である。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、上杉景勝は西軍に加担したことにより、会津百二十万石から米沢三十万石に大きく減封され、会津若松から米沢に移った。しかし、石高は4分の1になっても、家臣の召放ちは行わなかった。

直江兼続の指揮で、新たな城下町作りが行われ、城下を拡げ家臣団の屋敷割りと町割りを行った。城下に収容しきれなかった下級武士は、郊外の南原、東原に配し、荒地の開拓にあたらせた。また、用水、治水に心を配り、御入水堰、猿尾堰、帯刀堰などを開削し、洪水から米沢城下を守るため、松川にこの石堤を築いた。

この石堤を築くにあたり、兼続はみずから赤崩山に登り、米沢城や松川の地形を見渡し、この大規模な築堤を計画したものと伝えられている。

この石堤は、その後何度か大雨によって破損したが、その都度修復された。なかでも、文化9年(1812)の工事は、延べ9727人の藩士を動員した大工事だったと云う。

現在は、長さ1.2kmにわたり石堤が残り、昭和61年(1986)に市の史跡に指定された。石堤の断面は、上辺が約5m、下辺約9m、高さ約2mの台形で、橋の架け替え工事の際に、石堤の一部を切り崩したところ、堤の中心部からは直径1mを越す巨石が次々と出てきて人々を驚かせた。

現在、石堤のある河川敷は公園として整備され、「直江堤公園」として開放されている。