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山形県米沢市金池六丁目

震災前取材

 

この北山原(ほくさんばら)の地は、米沢藩の刑場があった場所で、米沢藩三代藩主上杉定勝の代の寛永5年(1628)12月、ルイス甘糟右衛門信綱一族など57名の切支丹 が処刑された。

上杉景勝時代には常駐する宣教師が不在の中、甘糟信綱親子や西堀式部らが入信し、地道な布教活動が行われていた。切支丹への迫害が強くなる中、寛永元年(1624)には、仙台、秋田、南部藩でも迫害が始まっていた。

米沢では、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後、5年間で5000人もの多数が受洗したと伝えられる。こうした信者の著しい増加に対して、米沢藩や幕府が警戒するところとなり、この寛永5年の米沢大殉教につながったと考えられる。

甘糟信綱は上級武士で、藩からしきりに改宗を勧められたが応じず、信仰を貫き、自ずからすすんで斬首された。殉教した中には三歳と一歳の幼子もいた。

現在あるキリスト・マリア・ヨハネの像は、ドイツで造られたテラコッタで、昭和4年(1929)に、殉教300年を記念して整備された。