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山形県白鷹町下山

震災前取材

 

この地の最上川の河床に、独特の形状の石があり、この地ではこれを「つぶて石」と呼び、次のような伝説が伝えられている。

昔、鎌倉時代のはじめに、剛勇無双の坂東武者で朝比奈三郎義秀という者がいた。三郎は、朝日岳にのぼり、頂上にあった石を左手で鷲づかみにして投げたところ、石は山々を軽々と越えてこの河原に落ちた。石には、そのときの三郎の手形が残っていると云う。

三郎は、あまり飛ばなかったと思い、今度は別の大石を、右手でつかみ、白鷹山の方向に投げたら、それは山をはるかに越えて、山形の礫石まで飛んだと云う。

朝比奈義秀は、鎌倉幕府の有力御家人の和田義盛の三男に生まれ、剛勇無双の誉れが高く、様々な伝承が残っている。

・源頼家が相模小坪の浜で遊んだときには水泳の妙技を見せ、鮫三匹を捕らえて人々を驚かせた。
・鎌倉の鎌倉七口の一つの朝比奈切通しは、三郎義秀が太刀で一夜にして切り開いた。

また、狂言や歌舞伎などにも取り上げられ、その剛勇ぶりが誇張された形で表現されている。

・朝比奈三郎を小鬼どもが嘲笑した。これに腹を立てた三郎は鬼を追いかけて大河を渡ると、そこに地獄の城門がそびえていた。三郎はこの城門を押し破り地獄を征服し、地獄にあるすべての酒と山海の珍味を出させ、鬼どもに舞を舞わせた。最後には閻魔大王を力でねじ伏せ、天国までの道案内をさせた。

東北地方に伝えられる七ツ森伝説やこの礫石伝説は、恐らくは後世の者が和田合戦で敗れた朝比奈三郎を惜しみ、手長足長伝説などと重ね合わせて伝えたものだろう。