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山形県大江町本郷丙

震災前取材

大江町の本郷東地区には漆川古戦場の碑が立っている。南北朝時代、南朝方の大江氏と北朝方の斯波氏とは山形盆地を舞台に激しく争った。正平23年(1368)、左沢より西方の大井沢街道に面する諏訪原一帯で両勢力は激突した。この戦いに敗れた大江氏は一族63名が自刃した。

大江氏は、鎌倉幕府初代の政所別当を勤めた大江広元の後裔である。大江氏は、平安時代に多くの文人、学者を出した氏族で、広元も当代の学者として知られた存在だった。「奥州征伐 」の論功行賞で、大江氏は長井荘ならびに寒河江荘の地頭職に任じられた。その所領は広元の子らによって分割相続され、寒河江荘の地頭職は広元の長男親広が相続し、次男の時広は長井を分知し長井氏を名乗った。

鎌倉幕府滅亡後は、大江氏は南朝方となり、北畠顕家が奥州の兵を率いて上洛、尊氏を九州へ敗走させた際にも、大江元政が一族を率いて参戦した。しかし、湊川で南朝側は破れ、北畠顕家も石津の戦いで戦死、後醍醐天皇も延元4年(1339)吉野で生涯を閉じた。南朝方は、圧倒的に優勢な北朝方の軍事力の前に苦戦を強いられたが、大江元政と一族は一貫して南朝方として行動した。

延文元年(1356)、大崎の奥州管領斯波家兼は、出羽の南朝方の勢力を駆逐するため、次男兼頼を山形に入部させた。兼頼は翌延文2年に山形城を築き、寒河江の大江氏と対峙した。正平14年(1359)、大江元政は、斯波兼頼と戦い討死し、その跡は時茂が継いだ。

正平23年(貞治6年=1367)、鎌倉府の鎌倉公方足利基氏が死去し、さらに、京都の将軍足利義詮も卒した。この幕府の混乱に乗じて、越後に潜んでいた南朝方の新田義宗と脇屋義治が越後、上野両国の国境に挙兵した。この新田一族の蜂起に呼応して奥州の南朝方も各地に蜂起した。

これに対し斯波氏は、鎌倉公方氏満を総大将とし、奥州管領である直持、そして出羽の兼頼が将となり数万の兵を率いて奥州の南朝方を攻めた。攻める斯波氏と迎え撃つ大江氏はこの漆川の地で激突した。

斯波軍は、防備の厳しい正面攻撃を避け、五百川方面から進軍し、主力を富沢、猿田の塁に向け、この方面に大江勢を牽制した。そして、別働隊を手薄な漆川上流で渡し、背面から諏訪原を攻めたとされる。

大江勢は左沢城への退路を絶たれ、斯波氏の圧倒的な軍勢と周到な戦略の前に壊滅的敗北を喫した。一族をあげて合戦にのぞんだ大江氏は、総大将の溝延茂信をはじめ、その弟左沢元時など、一族の多くが自害したと云う。

このとき、惣領の大江時茂は寒河江本城にあり、斯波氏も大江氏の本城まで攻めることはなく、漆川の戦勝で目的を達したものとして引き揚げ、大江氏は滅亡だけは逃れることができた。この合戦から5年後の文中2年(1373)、時茂は死に臨み、武家方に和を請い降ることを遺言し没した。

時茂の跡は時氏が継ぎ、北朝方に和を請い、嫡子元時を鎌倉公方足利氏満に人質として差し出し、鎌倉幕府から本領安堵された。このとき、時氏は大江姓を寒河江姓に改め、大江氏の名はこの地から消滅した。