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山形県長井市横町…遍照寺境内

震災前取材

 

この遍照寺の境内に、かつての下長井郷の代官だった寺嶋和泉守正貞の墓がある。

寺嶋氏は藤原北家の流れと伝えられ、山上の姓を名乗っていたが、長資の父の長房の代に、上杉謙信から「寺嶋」の姓を授かり、寺嶋和泉守長房を名乗るようになったと云う。寺嶋氏は本来、越中の神保氏の重臣として反上杉の一翼であったが、神保氏が滅亡したことで越中は上杉氏の支配下に入り、長房に越中の有力勢力だった「寺嶋」を名乗らせたのは、その越中支配の手段だったとも考えられる。

長房の子の寺嶋長資は、上杉謙信亡き後、織田勢2万の軍勢が魚津城を攻めた際に、中条氏、吉江氏らとともに約3千800の軍勢で魚津城に篭城し、3ヶ月の間決死の攻防戦を展開した。しかし衆寡敵せず、他の守将12人とともに壮烈な自刃を遂げた。その後、直江兼続は、長資の子の正貞を下長井の代官として遇した。

代官は支配地の年貢の徴収や民政全般に対して大きな権力を握っており、江戸時代中期までは世襲だった。下長井の代官は、その後、寺嶋吉友、盛秀、正友、信政と継承されたが、延宝4年(1676)、故あって改易の処分を受け、貞享元年(1684)二人扶持で再興を許されたが、その後米沢を出奔して断絶となった。

上杉氏は、会津時代には120万石の大身であったものが、その後米沢30万石になったが、直江兼続らの殖産、新田開発などの努力で、家臣団は会津時代のままなんとか維持していた。しかし寛文4年(1664)、三代綱勝が妹の嫁ぎ先の吉良邸を訪れた直後に嗣子もないまま急死し(毒殺説もあり)、上杉家は断絶の危機に陥った。

しかし会津の保科正之の尽力により断絶は免れ、綱勝の妹と吉良義央との間に生まれた綱憲を養子として上杉家の存続は認められた。しかし、上杉家は30万石からさらに15万石に減封され、このため上杉家は以後深刻な財政逼迫に悩まされることになった。また家臣たちの間では、吉良家による綱勝の毒殺説も取りざたされたことだろう。綱憲は延宝3年(1675)に元服し、延宝7年(1679)に初めて米沢入りした。

これらのいきさつから、吉良家の普請や買掛金は上杉家が持ち、また吉良家へは毎年6000石もの財政援助を行わなければならず、上杉家の重臣らは、「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いたと云う。寺嶋家が改易され、あるいは米沢を出奔したという延宝4年から貞享元年の時期は、このような時期にあたる。

上杉家は、実に120万石時代の家臣団を15万石になってもなんとか維持しようと努めたようで、財政は逼迫し、藩内には混乱が生じていたことは容易に推測できる。恐らくは年貢の取り立ても厳しく、また領民は重税に喘ぎ怨嗟の声を上げていたことだろう。寺嶋氏は、下長井で代官として代々善政を敷いていたようだが、この時期は領民と藩との狭間にあり、上杉家の重臣として藩の執政に対してそれなりの発言もしていただろう。

古文書によれば、寺嶋信政は牢に入れられたが、手引きするものがあり破牢したようで、またその後二人扶持ながら再興を許されるなど、米沢藩内にも寺嶋氏に同情、同調する者も多かったようだ。また米沢を出奔、断絶後も、一族は下長井の地に留まることができたようで、この墓のある遍照寺の檀家総代を長く勤めるなど、寺嶋家はこの地域では一定の尊敬を集めていたようだ。