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山形県寒河江市本町二丁目…陽春院

震災前取材

 

すでに奥羽越列藩同盟は瓦解し、その中心勢力だった米沢藩、仙台藩は降伏し、会津鶴ヶ城も落城寸前の、明治元年(1868)9月20日、寒河江では、会津から北上していた桑名藩兵と新政府軍の間で激戦が行われ、桑名藩や庄内藩に多くの死者を出した。その際の戦死者がこの陽春院に埋葬された。

このときの戦いで、桑名藩士等18名+唐津藩士1名、新政府軍は10名が戦死した。戦後、桑名藩士の戦死体は野ざらしにされたが、この古戦場の近くの陽春院の住職がそれを見かねて埋葬した。七回忌にあたる明治8年(1875)7月、旧藩主松平定敬らによって境内に墓碑が建立された。

この戦いで、桑名藩の雷神隊を率い生き残った立見鑑三郎は、その指揮能力を明治政府に評価され、後に陸軍大将まで上り詰めた。