スポンサーリンク

宮城県大崎市古川二構

震災前取材

室町時代に大崎七代教兼の第六子が初めて居を構えたと伝えられる。天文5年(1536)、大崎義直と家臣の古川刑部持彗が戦った際に、刑部はこの古川城に拠った。大崎義直は、伊達稙宗に援軍を求め古川城を攻め、落城させた。

その後は大崎家の家臣、古川弾正忠正の居城であったが、奥州仕置きにより大崎氏が領地没収になるにおよび古川氏も城を退去した。

大崎氏滅亡後は一時、豊臣秀吉家臣の木村伊勢守吉清父子が大崎地方に入り、古川城は子の清久が居城した。しかし、天正19年(1591)、その暴政に怒った、旧大崎家臣らによる一揆により失脚し、伊達政宗が大崎氏の旧領を領有することになった。

政宗は重臣の鈴木和泉元信をしてこの城に居らしめた。鈴木家三代宗良(伊達忠宗三子)のとき、正保2年(1645)桃生郡深谷に移り、その後古川は藩直轄の地となり郡奉行が置かれ城は廃止され御籾蔵となった。

明治時代小学校敷地となり、現在古川第一小学校となっている。

城は平城で、本丸、縦50間、横70間で、二の構が南に続き、西館とよばれた三の丸も配されていた。本丸周りは水堀がめぐらされ、東方緒絶川沿いは崖をなしていたという。