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宮城県大崎市鹿島台平渡…鹿島台小学校入り口

震災前取材

世人から「草鞋村長」又は「今尊徳」と敬称された鎌田三之助は、品井沼排水事業に生涯を捧げた玄光を祖父とし、その遺志を継いだ三治の二男として文久3年(1863)竹谷に生まれた。明治11年(1878)、15歳の春、星雲の志を抱いて上京、明治法律学校(現明治大学の前身)に学び、政治家としての素地を培った。

明治16年(1883)帰郷し、品井沼の干拓に携わる一方、明治27年(1894)31歳で県会議員に選ばれ、二期県政に活躍し、同35年(1906)39歳で衆議院議員に当選し、二期国政に参与した。また、海外発展の必要を唱えて、メキシコ移民事業を計画し、自身も明治39年(1909)メキシコに渡ってその実現に努力した。

明治41年(1911)、亀井宮城県知事から、「シナイヌマモンダイ、フンジョウ、キカノアッセンヲマツ」の帰朝要請を受け帰国、かつ村民の切なる懇請も有って、同42年(1912)推されて鹿島台村長に就任した。

就任後、固い決意を抱いて帰宅した村長は、まずそれまで着ていた洋服と靴とを脱ぎ捨て、左分けにしていた頭髪をしっかり刈っていが栗頭となり、口髭も普通のでは物足らぬと、特にチックをもって囲めたカイゼル髭をも剃りおとし、小倉の洋服に草鞋脚絆姿で、村政第一歩を強く踏み出したのである。

その発意当時の姿そのままで、爾来38年間、夏も冬もぶっ通しで破れれば繕い、汚れれば洗濯しつつ、これを愛用して晩年にまで及んだのである。この弊衣破帽に草鞋脚絆、腰に握り飯姿は、村役場に出勤したり、集落を巡視する場合はもとより、仙台や、東京と遠く出帳する時も、また、高貴な方々に面接の折も、終始一貫、これで通された。

昭和2年(1927)、自治、治水功労により藍授褒賞を授章、同19年(1944)には地方自治の功労抜群により自治顕功章を授章したが、同21年(1946)公職追放で村長を辞任した。

その人となりは、誠実で孝心篤く、聡明で正義の念強く、人に接しては謙譲で寛大、終生勤倹の二字を身に体し、一貫した信念の仁であり、聖者のような風格の大人物であった。

昭和25年(1950)、鹿島台中学校落成式に参列し、帰途発病、5月3日87歳で永眠した。