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宮城県大崎市松山千石

震災前取材

現在の県立松山高校の地には、仙台藩の重臣の茂庭氏の居館の上野館があった。

上野館は、寛永8年(1631)、茂庭周防良元の下屋敷として築かれ、慶安4年(1651)、良元は73歳で隠居し、千石城三ノ丸からこの地に移った。その後、子の周防定元は、明暦3年(1657)、治世の地を千石城からこの地に移し、以後幕末までの約200年間、この地が松山統治の中心となった。

小高い丘陵上に築かれており、治世のための居館とはいえ、規模は相当大きく、周囲には堅固な土塁が見られる。南東部が大手口で、上り口には駒池があり、水濠の機能も持っていたと思われる。駒池から居館までは御坂と呼ばれる坂があり、古絵図には、御坂を登りつめた所にシャチ瓦の表門がみられる。

上野館を取り囲むように茂庭氏家中武士の屋敷が配置され、上野館の南には、南側を土塁で囲み東側に門を持つ南御屋敷が配され、また駒池の北には、領内の子弟教育をする大成館があった。