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宮城県名取市愛島塩手字北野

藤原実方(ふじわらさねかた)は、平安時代中期の公家で、歌人として有名。父は侍従藤原定時で、母は源雅信の娘。

花山、一条両天皇に仕え、従四位上左中将に至った。しかし、長徳元年(995)に天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生した。このことが原因で、実方は一条天皇から「歌枕見て参れ」との命を下され、陸奥守に左遷された。

実方は風流才子としての説話が多く残り、石清水臨時祭の舞人を務めたり、清少納言や小大君といった才媛を恋人としたり、華やかな話題には事欠かない人であった。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ともいわれている。

歌は技巧を極め、雅びで、調べの美しさは同時代の男性歌人のなかで群を抜いている。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

忘れずよ また忘れずよ 瓦屋の 下焚くけぶり 下むせびつつ

など、掛詞や同音の繰り返しを巧に用いた繊細優美な作は、王朝最盛期を飾るに相応しい秀歌と言える。

この実方が、馬に乗ったまま道祖神の前を通ろうとしたとき、土地の人がこれを諌めて、「下馬し、再拝してお通りください」と言ったが実方はこれを聞き入れなかった。

この道祖神は、都の賀茂の河原の西、一条の北の出雲路の道祖神のむすめだったが、商人に嫁いだことから勘当されてこの国へ下され、土地の人がこれを崇めて神として祀ったものだった。身分によらず男女ともに願い事があるときは、陰部を形作って神前に供えてお願いすれば、叶わずということなかったという。

この道祖神の由来を聞いた実方は、「さてはこの神は下品な女神ではないか。下馬して再拝するに及ばず」と言い、馬を打って通りすぎたところ、馬が暴れて落馬し、それがもとで病の身となり命を落としたとされる。

その死後、都の賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没すると言う噂が流れたことが枕草子に見える。また、やはり死後にスズメへ転生して宮中の米を食い荒らしたとの伝説もある。

この実方ゆかりの地の笠島を、文治2年(1186)に西行がおとずれ、また元禄2年(1689)、松尾芭蕉もこの地 の近くまで来たが、五月雨の季節で悪路の道中で実方、西行の旧跡をたずね当てることができなかった。

 笠嶋は いづこさ月の ぬかり道

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