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宮城県栗原市金成字中町

震災前取材

日本正教会の創始者ニコライが、北海道函館のロシア領事館司祭に就任し来日したのは、切支丹禁制の幕末の文久元年(1861)であった。この年より3年前の安政5年(1859)に、日本はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結び、在留地内において外国人が自国の宗教を信仰することの自由を保障し、教会を建てることも自由であった。

当時、北方の開港であった函館には、外国人と交流し、洋学を学ぼうとする青年が多く来ていたが、その中に土佐藩坂本竜馬の従兄弟で神官の沢辺琢磨がいた。ニコライとの3日間の法論宗談の末、ハリスト経の宗門教義に心服した琢磨は、知人の酒井篤礼らとともに、明治元年(1868)4月、禁教令をおかして日本で最初の受洗者となった。

同年10月、榎本武揚らの幕府軍が函館に入り、その中には仙台藩から脱藩して榎本艦隊に合流した250名ほどの額兵隊もおり、これらの中にも、函館で洗礼を受けたものも多くいた。函館戦争後、酒井をはじめ生き延びた者達は郷里に戻り布教活動を始めた。

しかし明治維新政府は当初は切支丹を弾圧し、酒井は妻の実家に潜伏しながら医学のかたわら伝道をしていた。この間、検挙、投獄、出獄を繰り返しながらも布教を止めることはなかったが、明治14年(1881)3月、46歳の若さで盛岡で客死した。

信徒の中には学習グループを作り、洋学の影響を受け、自由民権運動の思想家として成長するものも数多くいた。千葉卓三郎、今野権三郎、沢来太郎らがそれであり、後に労働運動の先駆者となった鈴木文治もこの教会において洗礼を受けている。

現在の正教会は、ビザンチン式教会で、酒井篤礼の甥で、川俣松太郎が自宅の敷地に昭和9年(1934)建立した。