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宮城県栗原市栗駒栗原字西沢

震災前取材

栗原寺(りつげんじ)は、「栗原風土記」によると、用明天皇2年(587)の開山で、天台宗奥州総本山であり、金堂を中心に三十六坊に分かれ、七堂伽藍を備え、僧侶一千人を配していたと云う。その後、たび重なる戦乱で焼失し、平泉の藤原氏滅亡後廃寺となった。その後元禄2年(1698)再興され、宗派を真言宗に改め上品寺となった。

栗原寺の名は、古くは鎌倉期の正史「吾妻鏡」や「義経記」に見ることができる。特に「義経記」には、源義経が源頼朝に追われ、金売吉次に伴われ藤原秀衡を頼っての「東下り」の際に栗原寺に一泊し、藤原秀衡の迎えとともに栗原寺僧兵50人の護衛を従え平泉の中尊寺に入ったと記されている。

これまで栗原寺を実証する資料がなく、「幻の寺」とされていたが、昭和37年(1962)の調査で、この境内に栗原寺金堂跡が確認され、現在はその名を「栗原寺」に戻している。

・観世音菩薩立像、如来座像

近年、近くの沼地から、観世音菩薩立像、如来座像等が発見された。菩薩立像は約2.5m、如来座像は約0.8mで、材一本彫で損傷が激しい。状況から考え、平泉の滅亡の際に、破却を恐れ一時的に沼地に埋めたものと推測できる。沼地にあったときは、それとは知らぬ近所の子供達が、シーソーがわりにこれに乗って遊んでいたという。