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宮城県丸森町大内字青葉上

前九年の役において、源頼義、義家父子の軍が、安部貞任を討つために、騎馬に旗を立てたままこの峠を越そうとした。しかし森が深く、木々に阻まれ旗を巻いて通ったという。

天正の頃はこの地は相馬氏の所領で、その家臣が金山城に拠りこの地一帯を支配していた。しかし、天正13年(1585)伊達政宗が初陣で大軍を率い金山城を攻撃し、一気に山の東まで撃ち払った。その後この峠より地勢を大観し、概ね稜線をもって境界と定め、この地に残る旗巻の伝承に因んで、旗巻と命名したと伝えられている。

戊辰戦争の頃は、旗巻の地は、相馬中村城を眼下に望むことが出来るところとして、仙台藩の重要な戦略拠点であった。浜街道の駒ヶ峰城が落城してからは、旗巻は仙台藩最後の拠点として残り、砲台場を築くなど北進する新政府軍を阻止する態勢にあった。

明治元年(1868)閏9月、細谷十太夫率いる仙台衝撃隊(からす組)を含む仙台藩勢を、石田正親、鮎貝太郎平が指揮し、更に庄内藩、米沢藩の応援も得て、大砲4門を主軸に兵1千200で守備していた。

新政府軍は山が峻険のため攻めあぐねていたが、同月10日夜襲をかけ、一気に山上に迫る勢いを示した。両軍激戦となったが、仙台藩勢ら東軍は後方を遮断される危険を感じて、陣屋を焼き一旦退却した。翌日、態勢を立て直し戦おうとしたが、仙台から降伏の知らせが入り、協定が成立し戦いは終わった。 各藩はそれぞれ兵を引き上げ、仙台藩にとってはこの戦いが戊辰戦争中の最後の戦いになった。