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宮城県丸森町金山字鬼形

天文年間(1532~55)初頭、養子縁組や政略結婚により勢力拡大を図ってきた政宗の曾祖父稙宗は、三男の実元を越後の上杉氏へ100人の家臣団を付けて養子に出そうとした。しかしこれに対して、長男の伊達晴宗は、越後国内の争乱に対する危惧と伊達氏家臣団の弱体化を恐れてこれに強く反対し、父子相克の天文の乱が発生した。

この時代、稙宗の政略により、南奥羽の諸大名は伊達氏との縁戚関係になっていることが多く、伊達氏はその盟主的立場にあった。しかしこの天文の乱により、それらが稙宗側、晴宗側に分れ争うようになり、南奥羽諸大名を巻き込んだ大乱となった。

緒戦は稙宗側が優勢であったが、次第に晴宗側が巻き返し、天文16年(1548)稙宗が強制的に隠居させられて晴宗が家督を継ぐことで終焉した。しかしその後、諸大名は伊達氏の支配から離れ、特に稙宗側についた最上氏や相馬氏は伊達氏の支配を離れ勢力を盛り返し、伊達氏と激しく争った。特にこの地は、稙宗の隠居城があった地で、稙宗の死後はそれを保護した相馬氏が支配し、伊達氏と相馬氏の抗争の地となっていた。

このような中、天正5年(1577)、伊達政宗は元服し、天正7年(1579)には仙道の大名で三春城主田村氏の娘愛姫を正室とし、天正9年(1581)に、片倉景綱らの若き家臣らとともにこの地に進出し、相馬氏と戦い、初陣に勝利した。このとき、政宗は敵兵を深追いし、逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき片倉景綱は「我こそが政宗なり」と進み出て相手を引き付け、政宗の窮地を救ったという。

その後、天正12年(1584)に政宗は18歳で家督を継ぎ、父の輝宗を二本松の畠山氏に拉致され失い、福島の仙道地方で二本松の畠山氏はもちろん、葦名氏や佐竹氏などと激烈な戦いを繰り広げることになる。

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