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宮城県丸森町金山字鬼形…瑞雲寺

瑞雲寺は、長禄2年(1458)、越後村上から中珊禅師が来錫しこの地に建立したのが始まり。その後頽廃していたのを、伊達政宗の家臣で丸森の邑主の、中島伊勢守宗求が寺を修造し、田畑を寄進し、中島氏の菩提所となった。

中島氏は、南北朝期には、福島の保原城を居城としていた。天文年間(1532~55)、中島伊勢守宗忠は伊達家重臣の懸田俊宗に従っていたが、伊達家の内紛の「天文の乱」で、俊宗は稙宗を支援したが、宗忠は晴宗を支援した。乱は天文17(1548)年に終息したが、天文21(1552)年、保原城は懸田勢に攻められ落城したが、その後懸田俊宗は討たれ中島氏は復帰した。

以後、伊達家臣として相馬氏との戦いで活躍した。 天文の乱以降、伊達氏はその拠点を米沢に移し、この地は相馬氏が支配した。永禄9年(1566)、金山城が相馬氏によって攻略され、相馬氏はこの地に有力家臣を配し伊達氏に備えた。これに対し、伊達輝宗、政宗父子は、天文の乱以前の旧領回復を目指し、米沢から丸森に兵を進め相馬氏と対峙した。

天正4年(1576)より、伊達氏は幾度か金山城を攻め、天正12年(1584)、金山城はついに落城し、丸森は伊達氏の支配下になった。この戦いで、武功を挙げた中島宗求は伊達氏より、この地に2千石を与えられた。その後中島氏は、伊達家一族の家格をもって、明治までこの地の邑主として続いた。