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宮城県七ヶ宿町町裏

この一帯は、昔から御館と呼ばれており、安永6年(1777)に書かれた「安永風土記」によると、上館、東館と二の丸があるとされている。上館と東館は、湯原小学校裏手にあり、人工的に手を加えられたと見られる土塁や空堀の跡が残っている。二の丸跡は、現在湯原小学校校舎とその校庭になっているが、全体として館の全容は昔のままの状況にあり、中世の連郭式山城の遺構が良く残っている。

築城年代は明らかではないが、戦国期には横尾氏が居住していたと伝えられる。湯原は米沢領に属していたが、 この地は米沢の直接支配は受けず、この地の土豪の横尾氏が支配した。

横尾氏の詳細は不明であるが、この地は伊達、蒲生、上杉、そして再び伊達とその支配が激しく変わった地域で、横尾氏はその間を泳ぎ渡っていたのだろう。

その後正保元年(1644)、伊達家一門の石川大和の知行地となるまで、伊達家宿老中野常陸介の支配下にあり、横尾一族が居城としていた。石川氏の知行地になってからは、この地には石川氏の重臣が配され、二の丸に居館や表門を構え、藩境の警備にあたり幕末まで続いた。

なお、明治になって払い下げられた表門は、現在山形県赤湯のホテル瀧波に現存する。