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宮城県白石市福岡蔵本字平屋敷

三代片倉小十郎景長は、病身の身を押し、駕籠に揺られて巡視した結果、この白石城を臨む地を片倉家代々の墓所と定めた。景長は、仙台より石工を招き、阿弥陀仏像を刻ませ、延宝8年(1680)、初代景綱と二代重長の墓を傑山寺からこの地に移した。

景長は翌延宝9年病死したが、前二代にならい石像をつくらせそれを墓標とし、以降九代まで同じようにここに葬られた。

七代片倉村廉夫人は、仙台藩主伊達吉村の息女郷姫だったため、城主と同様にここに葬られ、あわせて十体の阿弥陀仏像が石畳を敷いた床面の上に並んでいる。

明治初年に没した十代宗景の墓は玉垣の中に、また初代景綱に殉死した家臣6名の墓碑と、明治4年(1871)に北海道に開拓移住したした家臣たちが建てた「惣家中の碑」が建てられている。

片倉氏は、建武年中(1334~37)信州片倉村から奥州探題職に任ぜられた斯波氏に従って奥州に入り、天文年間(1532~54)、片倉景時の代に伊達晴宗に仕え世臣となった。 白石片倉氏初代の片倉小十郎景綱は、米沢八幡の神職の片倉景重と直子との間に生まれた。直子は再婚で、前夫の鬼庭(茂庭)左月良直との間に、後に政宗の乳母となった 喜多をもうけている。

景綱の才を伊達輝宗の近臣遠藤基信が見出し輝宗に推薦し、のちに異父姉の多喜とともに政宗の傳役となった。天正12年(1584)、政宗が18歳で家督を相続すると、若い政宗の幕閣の中心として、陰に日に政宗を支え、人取橋の合戦、摺上原の合戦と戦い、南奥羽をほぼ手中にした。

しかし、天正18年(1590)春、秀吉は小田原征伐の軍を発すると、政宗と伊達成実をはじめとする若い幕閣たちは主戦論で徹底抗戦を主張していたが、景綱はその愚を政宗に説き、小田原参陣を決意させた。政宗は、会津を中心とした南奥の領地を没収され、岩出山城へ移ったが、以後、伊達政宗の参謀長的立場で重用されることになる。

慶長7年(1602)、仙台領内に認められた二つの城の内の一つの、刈田郡白石城主となり1万6千石を知行した。片倉景綱は元和元年(1615)享年59歳で没し、そのあとは嫡子の重長(重綱)が継いだ。

重長は慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、伊達軍の先鋒として千余人を率いて出陣した。道明寺口で後藤基次、薄田隼人正の軍と戦いこれを破り、真田幸村勢とも戦った。このときの重長の奮戦は際立ったもので、以後、「鬼の小十郎」と称されるようになった。

しかし、徒で敵軍の中に攻め込み、組み討ちで敵武者の首を挙げるなど、この重長の奮戦のことを聞いた父の景綱は「一軍の将たる者、乱戦の中で組み討ちを演ずるなど慮外の極み」と大目玉を食らわしたと伝える。

また、美男子であったといい、初めて上洛した重長を見た大坂城内は大騒ぎとなり、男色家で有名な小早川秀秋は重長を追い回したという逸話も残る。

この重長の後室は真田幸村の娘の阿梅であり、真田幸村は道明寺の戦いで重長を見込み、娘を託したのだと伝えられる。

慶安4年(1651)、片倉氏は伊達一家に列せられ、万治2年(1659)重長は享年76歳で没した。 その後子孫は、白石城主として代々封を受け継ぎ、明治維新を迎えた。