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 宮城県蔵王町宮字台

天文21年(1552)、伊達の家臣宮内氏が内親館より移り居館としたという。内親館とは、白石川を隔てて相対しており、それぞれが呼応して奥大道を守備したものと考えられている。

その後、宮内氏は天正19年(1591)に加美郡色麻へ移り、その後は廃城になったという。 また元亀元年(1570)、伊達輝宗に対して宿老の中野宗時、牧野久仲父子が叛したいわゆる元亀の乱の際、宗時、久仲の軍勢を、亘理元宗、重宗父子が宮城に拠って迎え撃ったという。

現在は、採土や果樹園造成、東北自動車道建設などにより遺構の残存状態は良くない。往時は比高約30m以上あったとされ、また本郭から西方に斜面を下った場所に、南北約90mの土塁が残り、その外側に空堀があったと推定されている。現在は標柱によりその跡を知るばかりである。