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宮城県仙台市太白区秋保町馬場字町南

  別名:豊後館 秋保馬場地区には、秋保御三家と言われる馬場氏が館を構えた。秋保氏は、長袋の「楯山城」ののち「長館」を本城とし、二口街道の要所要所に館城を配置し敵の侵入に備えた。 戦国の世に入っては伊達氏に従属し、伊達政宗が岩出山に本拠を移す頃には、外様家臣の格式から家格御一家としての格式となり、山形最上氏に対する二口峠の境界警備という重責を担った。 馬場氏の3代定重は、それまでの上館から居館を馬場館に移した。この館は、名取川と小滝沢の渓谷に挟まれた断崖絶壁の要害という自然地形を生かした平城で、100mに及ぶ石を積んだ土塁をまわした堅固なものだったと言う。定重は武勇に優れ本家秋保氏とともに伊達氏に臣従し、ニロの境界警備に数々の功績を上げている。この館は、秋保摂津守が政宗の命を受けて、最上氏へ内通を図った桃生郡の長江月鑑斎を誅殺した地であるという。 現在の馬場の集落は、この馬場館とともに整備されたものであるが、 伊達氏仙台移住により馬場氏は刈田郡小村崎村へ所替えになり、築城後40年余りで廃館となる。