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宮城県仙台市青葉区新川

  文治3年(1187)、兄源頼朝に追われた義経一行は、平泉へ逃れる途中、この新川を通った。 ここには、後年、定義山(じょうげさん)を開く平貞能(さだよし)が、源平の戦いに敗れこの地に落ち延びて隠れ住んでいた。義経一行はそれを知らず、この貞能に一夜の宿を借りようとした。かつての敵味方も、今はお互いに落人の身の上、また義経一行には身重の北の方がいた。貞能は同情して義経一行に宿を貸した。 翌日、義経一行は平泉に出立しようとしたが、身重の北の方はこれ以上歩ける様子ではなかった。貞能の勧めもあり、北の方はここで出産してから平泉に行くことになり、義経一行は先に平泉へ向った。北の方はこの地で無事出産はしたものの、長旅のせいもあり、産後の肥立ちが悪く、とうとう亡くなってしまった。 貞能や里人達はこれを哀れに思い、北の方をねんごろに葬った。のちにこの北の方を葬った塚を、我が子を育てたいのに育てる事ができず、他人の親が育てるほととぎすの習性から「ほととぎす塚」と呼ぶようになったと云う。