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宮城県仙台市青葉区青葉町…光明寺

  支倉六右衛門常長は、伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613)、宣教師ソテロを案内人とし、180余人の使節団を率い、イスパニアへ向けて石巻の月浦を出帆した。 太平洋と大西洋を横断して、元和元年(1615)、スペインのマドリッドでイスパニア国王のフェリペ三世に謁見した。 次いでローマを訪問し、ローマ教皇に謁見してローマ市公民権を与えられ、貴族に列せられるなど歓迎を受けた。しかし、日本では切支丹弾圧が行われ、鎖国へと向かっているなど、日本の国内情勢の変化で、目的のノビスパニア(メキシコ)との通商などの目的を達することはできず、元和6年(1620)に帰国した。 帰国後の日本は、切支丹の洗礼を受けていた常長にとっては厳しいもので、その偉業が表に出ることはなかった。 常長の墓は、この地の他にも川崎町、大郷町にも存在し、それぞれに異なる伝承が残るが、この地の伝承では、帰国後間もなくの元和8年(1622)没したとされる。 常長らが持ち帰った文物は幕府をはばかり藩により厳重に封印され、彼らの業績が公になるのは、明治に入り、岩倉使節団がヴェネチアにおいて常長の書状を発見し、その壮図が広く知られるようになった。「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001)に国宝に指定されている。中でも常長の肖像画は、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。 その後の支倉家は、嫡男常頼が継いだが、寛永17年(1640)、家臣が切支丹であったことが露呈し、その責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。