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宮城県仙台市青葉区大町一丁目

  藩政時代、仙台城の大手から城下を東西に貫いている大町の幹線は、城下の中央部で、南町・国分町を連ねる奥州街道の幹線と交差していた。この交差点四隅の建物は藩の手で造営され、銃眼と矢狭間とを設けた二階建ての城郭式楼櫓建築であった。本瓦葺入母屋造りで屋根の各大棟には蛟竜を高く上げ、仙台城正面の防禦に備えたばかりでなく、城下中心街の偉容を大きく誇ったものであった。 芭蕉の辻は名実ともに、古来仙台城下の中心街であった。この辻の東西に連なる大町と、南方に接する南町とは、伊達氏代々に従ってきた御譜代町であり、また北方に置かれた国分町は国分氏時代からの町人町で、馬市の駅伝馬の特権を与えられていた。特に辻を中心に富商が軒を並べ、南町東側には藩の両替所が置かれるなど、城下経済の中枢をなしていた。また、年の暮れには辻を中心に十字形に仲見世が開かれ、殷賑を極めた。   ・芭蕉の辻、名前の由来 名前の由来としては諸説あるが、その内の一つは、政宗がまだ仙台城を築く以前のこと、政宗は芭蕉という名の虚無僧を重く用いて、密かに敵方の動静を探り、作戦計画の上に多大な利益を得ていた。 その後仙台城に移るに及び、彼を召し出しこれまでの功績に報いるため、この地の四隅に楼櫓式の建物を造営して彼に与えた。しかし、芭蕉は城下の雑踏を嫌い、去って名取郡増田の近郊に居住して布袋軒と号した。 そこで彼の名を伝えるため、この辻を芭蕉の辻と称したという。後世の「奥の細道」の松尾芭蕉とこの地名との関わりはない。