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宮城県仙台市泉区将監八丁目

震災前取材

泉区の「将監」の地名は、伊達政宗の家臣の横沢将監吉久にちなんだものである。

横沢氏は、天文の頃(1532~54)、国分十四代宗政の次子で、国分弥三郎が分家独立し横沢を名乗り、将監を称したことに始まる。国分荘、山根通実沢村、寺岡山東麓の立田館を居館としていた。国分氏の没落後は伊達家に仕えた。

横沢吉久は、元和2年(1616)9月、政宗の命によりサンファンバウティスタ号で、遣欧使節の支倉常長一行を迎えるために再渡航に付いた。航海はきびしい暴風にあい、苦しみながら翌年5月やっとのことでアカプルコに着いた。そしてメキシコ市で支倉常長、ソテロの一行と合流した。吉久はこの地で洗礼を受けている。

吉久は支倉常長らとともに、帰路はフィリピン経由で、オランダ艦隊との遭遇という事件にあったりしたが、4年後の元和6年(1620)に石巻月の浦に帰港した。

吉久の帰藩後の詳細は不明だが、恐らくは切支丹禁令の日本で、幕府の命により支倉常長と同様に、表舞台からは遠ざけられたのだろう、しばらくは実沢村山根寺岡の立田村落で隠棲していたようだ。

この時期、寛文3年(1663)はひどい旱魃続きで、七北田流域の農民達はみな疲弊していた。吉久は、七北田野山赤坂の谷間を掘り、切支丹関係の法衣をはじめ物品一切を焼き埋めて棄教し、この赤坂に庵を営み、人々を説得しこの谷沢に大溜池を造りはじめた。底部と両側を岩盤まで掘り下げ、良質の粘土を芯に積み固め、堅固な堤防を築き大堤にしたと伝えられる。

以来、七北田川流域の村人たちは、横沢将監吉久を赤坂将監と敬い、この堤を将監堤と呼ぶようになった。