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宮城県仙台市泉区根白石館下

震災前取材

栽松院は岩城左京太夫重隆の娘で、伊達晴宗の正室、伊達政宗の祖母。杉目城(福島市)に住んだので「杉目御前」とも呼ばれた。晴宗が家督を輝宗にゆずると、米沢から福島の杉目城に夫とともに入りここで暮らした。

しかし天正18年(1590)、伊達政宗は秀吉の奥州仕置きによって信夫、伊達両郡は没収され蒲生氏郷領となり、伊達政宗は岩出山城に移った。これに伴い天正19年(1591)、栽松院は根白石村に移り、晩年をこの地で過ごし、文禄3年(1594)に亡くなった。

没後、伊達政宗は晴宗の墓所のある福島の宝積寺から僧能山を招き、屋敷跡に同名の宝積寺を建立した。墓石は享保17年(1732)五代藩主伊達吉村が建立した。

栽松院は、久保姫、或いは笑窪姫と呼ばれた絶世の美人であったという。これを伊達晴宗が見初め、白河結城家へ輿入れするのを兵を率い待ち伏せし強奪したと言う。 それでも晴宗との間は仲睦まじかったらしく、晴宗との間に六男五女をもうけた。その子達は、長男は実家の岩城家を継ぎ、次男の輝宗が伊達の家督を継ぎ、そのほか留守、角田、石川、国分の継嗣となった。

米沢の時代に、母の愛情の薄い孫の政宗を必死にかばい、政宗を守るために毒見役さえ付けたという。政宗はこのような栽松院を敬慕し、栽松院の死後、仙台城に移ってから、城から良く見える樫の大木のある場所に位牌寺を建立し、本丸から朝夕にこれを遥拝したと伝える。