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宮城県仙台市泉区小角大満寺

震災前取材

国分盛重は伊達晴宗の五男(伊達政宗の叔父)で国分氏を継いだが、慶長元年(1596)病と称して岩出山に出仕しなかったために叛意があるとして、政宗は盛重を攻め、盛重は出奔した。その末子の平蔵は現在の根白石辺りに落ち延び、古内家に育てられ古内重廣となった。

古内氏は、国分氏の家臣であり古内村の領主だった。古内実綱は、落ち延びてきた国分重廣を匿い養子とし、元服後古内氏を継がせた。慶長13年(1608)、重廣は伊達政宗に召し出され、その馬術の巧みさを認められ、馬廻役となり、その後、政宗の嫡男忠宗の守役となる。重廣は文武に秀で、身丈長身で登城する際には、奥向きの女性がその姿を見に大手門付近に集まったと伝えられる。

忠宗に信頼され、寛永13年(1636)、忠宗が伊達家の当主となると奉行を命ぜられ、2千石で岩沼要害に入った。また忠宗の命によって栗原郡の伊豆野原一帯の開拓と伊豆野堰の難工事を完成し、その功績で1万4千9百石となった。伊達忠宗の藩政において、 その信頼を得て、筆頭家老の重職を担うまでになった。

万治元年(1658)、伊達忠宗が没した折に、古内重廣の家臣三名とともに殉死した。古内重廣とその家臣は、伊達家によって手厚く葬られ、藩主忠宗が幼少の頃から付き従っていたと言うことで、伊達忠宗の位牌もこの寺に安置されている。