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宮城県大和町宮床字四辻

震災前取材

別名:宮床所、宮床館

仙台藩五代藩主、伊達吉村が建て、弟の伊達村興が入った。館は小高い丘の上に築かれており、往時は丸馬出を備えたり、内枡形虎口やかざし土塁など技巧をこらしたものであった。

宮床は、岩出山や登米、涌谷、角田などの「要害」ではなく、仙台藩の制度上では「所」である。しかし、堀によって区切られた本丸、二の丸には外郭が置かれ、一通りの城の機能も持っていたようだ。

仙台藩二代藩主、伊達忠宗の八男の伊達肥前宗房は、伊達氏累代の家臣である田手家の家督を嗣ぎ、伊達の称号をゆるされた。万治3年(1660)宮床に所領を与えられ、寛文6年(1666)に宮床に居館を移した。

この宗房の長男が伊達家宗家を嗣ぎ、五代藩主吉村となる。この宮床伊達氏は、吉村の弟の伊達村興の時、元禄15年(1702)に、一時川崎要害(宮城県柴田郡川崎町)に移るが、享保7年(1722)宮床に戻り、以後8千石を領し、明治に至る。

なお、この宮床は、仙台城が落城した折の立ち退き先としての伝承があり、それによると、

仙台城搦め手口→郷六御殿→根白石→宮床

のルートが考えられている。