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宮城県大和町鶴巣字下草字迫

震災前取材

 

黒川安芸守晴氏が永禄年中(1558~69)居住したとされる。本丸の規模は東西約45m、南北約60mで、空堀を有し、二の丸(小館)、東丸、西丸がある。

黒川氏は清和源氏足利氏流で、文安2年(1445)頃、大崎氏支族として黒川郡に封ぜられたという。長禄4年(1460)、古河公方足利成氏から出陣を命じられていることから、中奥の有力豪族として目され、大崎氏支族として、大崎領南辺を固める役割を担っていたと考えられる。しかし、伊達氏の北上にともなって、大崎、伊達の二大勢力に挟まれ動揺するようになる。

応永年間(1394~1527)頃、伊達氏の勢力下に入ったようで、黒川氏六代に伊達親族の飯坂氏から景氏が迎えられたことで完全に伊達氏の麾下に伏したようだ。黒川氏の初期の居城は御所館と伝えられるが、景氏の代に鶴巣下草へ本拠を移し、伊達勢力圏の北辺を固める形になった。

黒川氏の家臣としては、大衡・細川・松坂・八谷・郷右近氏らが知られ、その城は三十三城、知行高は三千九百十七貫余であったと伝えられている。

黒川氏九代月舟斎晴氏は、黒川郡の支配者として家臣団編成や城下町の整備に務め、黒川氏累代を代表する武将であった。しかし、小大名に過ぎない黒川氏は、南方から着実に勢力を伸ばす伊達氏と、北方の大崎氏との間で揺れ動いた。

天正14年(1586)、大崎家中では家臣を二分しての権力争いが激化していた。反主流の氏家弾正からの要請を受けて伊達政宗は大崎領へ兵を出した。このとき黒川晴氏は伊達氏と袂をわかち、大崎方として桑折城に入って抗戦した。この「大崎合戦」は、黒川晴氏の軍略により、伊達勢は大敗北を喫する。

大崎合戦に敗れたとはいえ、摺上原の戦いで後顧の憂いを絶った伊達氏は、家中に火種を抱える大崎氏に対して圧倒的に優位な状況で、最上義光らの調停によって大崎氏との間に和議が結ばれ、大崎氏は政宗に屈する形をとって伊達氏に降った。

その後、天正18年(1590)、豊臣秀吉の「奥州仕置」により大崎氏は所領没収の処分を受けて没落した。伊達政宗は、黒川晴氏の所領を没収、身柄を米沢に拘禁して断罪しようとした。しかし、大崎合戦の折に命を助けられ、晴氏の娘婿でもある留守政景の助命嘆願によって一命はとりとめ、以後は政景の保護下で余生を送った。

慶長14年(1609)、87年の波乱の生涯を閉じた。