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宮城県大和町鶴巣北目大崎字岸

震災前取材

 

黒川神社は本来は薬師堂で、多賀城にあった陸奥鎮守将軍大野東人の家臣だった大野兼則の子孫で、黒川郡の三ヶ内城主の報恩寺可則が、仁和年間(885~889)、智証大師作の薬師像を母親の供養のために祀ったのが始めとされる。

この薬師像は、源義家が東征に際し尊崇するところとなり、「袖振薬師」と称された。その後、この地の領主だった黒川晴氏が、特に「東方の薬師」として崇敬した。また、江戸期に入っても、仙台藩主伊達綱村を始め、藩主の常に尊崇するところとなった。

明治元年(1868)神仏分離令が発せられ、薬師堂は村社黒川神社となった。現在の社殿は明治13年(1880)に建立された。

氏子や崇敬者は今も「お薬師様」とも呼び、崇敬している。