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宮城県東松島市野蒜字下沼

震災前取材

 

明治政府は、東北開発のために宮城県の野蒜地区に近代的な港を建設することを計画した。これは壮大な計画で、安積疎水により猪苗代湖と阿武隈川をつなぎ、さらに阿武隈川と北上川を運河でつなぎ、その中間に野蒜港を開き、岩手県、宮城県、福島県、山形県を経済圏としてまとめようとするものだった。明治9年(1876)調査が開始され、明治11年(1878)には、野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」の開削工事が始まった。

同じ一期工事の新市街地も工事が進み、地元の野蒜村はすばらしい土木景気で、新市街地ができかかった時分は次のような唄が流行したほどであった。

野蒜新町 ほうきはいらぬ 若い女の すそで掃く

北上川の大水害など、予想外の困難が次々におそったが、それでもなんとか明治14年(1881)には「北上運河」が完成し、明治15年(1882)8月には小蒸気船が石巻-野蒜-塩釜間に就航した。

しかし、竣工間もない明治17年(1884)9月、台風の襲来で東突堤の3分の1が一夜のうちに崩壊し、内港は閉鎖されてしまった。被害は予想以上に大きく、またこの時代すでに鉄道が各地に敷かれるなど、時代は刻々と変わっていた。

結局、第二期工事の予算も計上されることなく、野蒜築港計画は中止が決定した。急転直下築港工事が中止になったことで、街は火の消えたようになり、破産した人も少くなかった。この築港の失敗により、東北の近代化は大きく出遅れた。その後本格的な近代的港湾の必要性が叫ばれ、塩釜港が整備されるのは大正に入ってからであった。

※2011年3月の大震災により、野蒜新町は壊滅した。