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宮城県東松島市宮戸…観音寺

震災前取材

宮戸島出身の儀兵衛と、室浜出身の多十郎は難破漂流し、結果として日本で始めて世界一周した。

寛政5年(1793)、藩米と木材を積んで江戸へ向けて石巻を出港した乗組員16人の若宮丸は、大シケに遭遇し、帆柱を失い漂流し、北北東へ流された。漂流すること数ヶ月、アリューシャン列島のオンデレッケ島に漂着した。

その後ロシア船に助けられ、彼らはオホーツク、イルクーツク、など8年有余を費やし極寒のシベリア横断の苦労を耐え忍び、ロシアのペテルブルグに着いた。

当時、ロシアは対日貿易を希望しており、その手段として漂流民の返還を計画した。異国の地で病死したもの、またロシアに留まることを希望したものを除く、儀兵衛、多十郎ら4人は、ロシア軍艦ナジェータ号に乗り、西廻りの大航海の末に、文化元年(1804)長崎に帰国した。これが結果的に、日本人で始めての世界一周となった。

しかし、帰国した彼らを故国は暖かく迎えたわけではなく、厳しい取調べの末に多十郎は自殺をはかり廃人同様になった。後に故郷に帰ることを許されたが、多十郎は故郷に着いてすぐに病死し、儀平もあとを追うようにして半年後に死んだ。多十郎は36歳、儀兵衛は45歳だった。