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宮城県多賀城市市川字城前

震災前取材

 

 

神亀元年(724)に創建された多賀城は、10世紀にかけて陸奥国府として、さらに陸奥,出羽両国を統轄する按察使(あぜち)が常駐し、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併置されるなど、東北経営の中枢的な役割を果たした。

多賀城跡は、低い丘陵上に立地し、南西に広がる広大な仙台平野が一望でき、北には黒川、大崎平野を控えている。また、東には塩竈港があるなど、当時は山道・海道の交通の要衝の地であった。

遺跡は、標高52mから54mの丘陵から低湿地をまたぐようなかたちで築かれている。全体の形はいびつな四角形で、規模は南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mで、中世、近世の城館と比較してもはるかに規模が大きい。周囲には幅3m、高さ5mほどの築地が廻り、南辺中央に南門、東辺北寄りに東門、西辺南寄りに西門がそれぞれ位置している。

中世の山城とはおのずとその性格は異なるが、南は湿地帯、西は七北田川、北は加瀬沼に守られ、周囲を頑丈な築地塀と木塀に守られた、軍事的な要塞としての側面も持つ。

南門から北に300mほど入ると、約100m四方の政庁跡がある。建物の配置は、中央に正殿を置き、左右前方に脇殿を配し、南正面には南門があり、門から築地が延びて四周を囲んでいる。これは、大宰府政庁や各国の国府の政庁に共通する形であり、多賀城政庁が国府に関わる大規模な官衙(かんが)の中枢であったことを示している。政庁以外にも城内の所々で役所の実務を司った建物跡群や竪穴住居跡が発見されている。

陸奥守は、陸奥、出羽按察使も兼任し、より大きな権限をもって陸奥、出羽両国を統轄し、鎮守将軍をも兼任して軍事も掌握していた。国守の職掌は多岐にわたり、律令制に基づいて公民を支配するために広範な行政、人事、司法、軍事、警察権などをもっていた。この他に陸奥国守には、宴会や贈物を与えて蝦夷を支配下に入れる「饗給(きょうごう)」、軍事力によって蝦夷を支配下に入れる「征討(せいとう)」、蝦夷の動静を探る「斥候(せっこう)」という特別な役目が与えられていた。

宝亀11年(780)、当時日本と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた 。その伊治郡で俘囚の出身の伊治公(これはりのおおきみ)呰麻呂(あざまろ)が反乱を起し、多賀城は火をかけられ灰燼に帰す。多賀城跡の発掘調査では、この事件の時の焼土、焼壁、焼瓦が広範囲にみつかっている。多賀城は一時まったく機能を失ったことがわかる。

しかし多賀城にはその後大伴家持、坂上田村麻呂が入り、蝦夷は次第に北に追い込まれて行くことになる。

前九年の役、後三年の役には源頼義、義家父子が多賀城に入り、文治5年(1189)の源頼朝の平泉討伐の際には、頼朝も滞在している。また、室町期南北朝時代には、南朝方の義良親王(後の後村上天皇)、北畠顕家らが入り、南朝の拠点となり、奥州小幕府とでも言える状況が生まれた。しかし、南朝方の没落とともに徐々に荒廃し、多賀城は歴史の中に埋もれていく。

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