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宮城県塩竃市浦戸寒風沢字湊

震災前取材

塩竈寒風沢日和山の麓に造艦の碑が建っている。安政2年(1856)この地で日本で始めての洋式軍艦が建造された。

兵学主任小野寺鳳谷(寒風沢・石浜・船入島の砲台設計者)は、藩命により江戸の造船技術家三浦乾也を招聘し、安政2年 (1856)8月寒風沢字山崎の地で洋式軍船建造に着工、翌4年7月完成を見た。

船の長さ約33m、幅約7m、高さ約31m、2本マスト、洋式大砲9門を備えた日本最初の洋式軍艦として建造され、開物成務より開と成をとって開成丸と命名した。進水式には藩主慶邦や、各藩の重役達が多数出席し、その様子は目を見張るものだったという。

文化元年(1804)レザノフが、漂流民としてロシアに保護されていた塩釜寒風沢出身の津太夫らを伴い日本との通商を求めてきたが、幕府はこれを拒否、ロシアはこれに対し千島に報復攻撃を加えてきた。このため幕府は奥羽四藩に蝦夷地の警備を命じた。

このとき仙台藩は文化4年(1807)に2,000人の藩兵を出動させ、北辺の警護にあたらせ、ロシアの南下に備えた。この50年後の安政2年(1855)仙台藩は蝦夷地の警備を再度命じられた。

仙台藩はここに藩士の次三男を屯田兵として移住させ、新仙台領を建設しようとして藩領編入を願い、安政6年(1859)に許可された。これを受けて仙台藩では、養賢堂学頭大槻習斎を中心に「開物、成務」の計画をたて武備をかためながら、西洋式新技術を採り入れ軍制改革を推進していた。 開成丸はこのような状況の中で建造された。

安政4年(1858)12月、完成した開成丸は、試航のため寒風沢港を発し気仙沼までの往復が行なわれた。試航後、米を江戸品川に廻漕すること数航海の後、本来の目的を達成することなく、石巻に於いて解体されたと伝えられる。

嘉永6年(1853)ペリーの浦賀上陸によって鎖国が破られ戦艦は急速に戦闘能力が要求されるようになっていた。外国船技術の導入により、開成丸の性能ではすでに時代遅れとなっていたのだ。また、開成丸を輸送船に改造しても、その構造が適当でなかった関係もあって、進水後2年にしてその姿を消すことになった。