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宮城県女川町飯子浜字夏浜

震災前取材

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋である。

この計画により、牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第十四突撃隊(嵐部隊)が配された。本部は現在の女川第六小学校付近に置かれた。

この部隊の編成は、海龍24隻、震洋50隻、回天12隻、咬龍8隻、機銃隊、防空隊、監視隊などで編成され、予定隊員は2000名で、終戦時にはその内、海龍12隻、隊員600名が配備されていた。乗員の多くは、予科練で訓練を受けたが、すでに飛行機は無くこれらの小型艇の乗員として配備された。牡鹿半島の萩浜や飯子浜には、海龍を隠すための秘匿壕が掘られた。

昭和20年(1945)7月10日夜、B-29の編隊が仙台を爆撃し、仙台の中心部はこの爆撃により殆ど壊滅した。同年8月9日、塩釜の造船所や松島基地が爆撃され、この連合軍の爆撃機8機がその帰途、女川湾に向かった。

このとき、女川湾には、海防艦天草ほか12隻の艦艇が停泊していた。爆撃機は女川市街方向から女川湾に侵入し艦艇を爆撃した。海防艦天草以下これに応戦し、爆撃機を1機撃墜したが、12隻の艦艇は全て沈没した。この戦闘で、日本側は200名の戦死者を出した。

同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦が確定した。武装解除に伴い、部隊に配備されていた海龍12隻は、女川湾で最後の観艇式を行い、そのまま湾外の200~300mの海底に静かに沈んでいった。