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宮城県石巻市和渕字牡丹窪山

震災前取材

武田信玄の末弟の彦次郎信次は、次弟信繁の嗣子となり、天正10年(1582)武田勝頼が敗れた際に会津に亡命した。のち米沢蒲生家に身を寄せ、文禄2年 (1593)に病死した。その3人の子は遺言により伊達家に仕えた。

長子重次の子の武田貞信は伊達忠宗の出入司となり、正保元年(1644)、和渕に1300石を賜った。貞信の子充信は、4代綱村に和渕鷹狩の折に邸宅を建て与えられた、元禄9年(1696)直参足軽25人を預けられ、のち元禄14年(1701)、一番召出しに取り立てられ、重臣に列したと伝えられている。

その後、戊辰戦争の折に、武田安之助信昌は伊達藩の一隊長として出陣し、福島方面に出陣し戦死した。その功により、伊達藩から墓石前の石の花立と灯篭が贈られ、現在も近くにある菩提寺耕徳院の墓前に残る。